知研のはじまり
八木 哲郎
28才ころまで文学青年だった
私は終戦直後両親を亡くし、親戚に預けられて、高校に上がった頃はまったくつらい人生だった。
それで、すがりつくような感じで小説ばかりよんでいた。17才の頃から図書館に通って世界文学全集を2日に1冊、単行本なら1日1冊というスピードで読んだ。今の赤坂離宮の一部が国会図書館だったことはものすごく幸運だった。学校は麻布、家は信濃町にあり、距離は近く、学校がおわるとすぐそこに行き、土日はもちろん、平日もときどき学校を休んでそこに行った。
読んだのは19世紀の外国小説ばかりでロシア、フランス、ドイツなどの詩情豊かなものが好きだった。ロシア文学ならトルストイ、ツルゲーネフ、チェホフ、フランス文学はモーパッサン、スタンダール、フローデル、バルザック、ドイツならならヘッセ、カロッサ、トーマス・マン、しかし人間の本質に迫るようなドストエフスキー、カフカ、ゲーテなどはまだよくわからなかった。
とにかく棚にならんでいる本は全部読んでしまいたいと思っていた。だが、文学がわかっているわけでなく、いわば文学の雰囲気が好き、ディテッタントだった。日本の小説はほとんど読まなかった。
28歳くらいまでいわゆる文学青年だった。
自分でも自分の過去を題材に小説を書こうと志した。それであるプロレタリア作家を囲む会などに入って彼から小説を書く技術を教わった。
しかし原稿用紙を書いては破り、破っては書き、どうしても400字詰め用紙にせいぜい数枚しか書けなかった。丹羽文雄や北原(名前失念)の“小説作法”とか“小説の書き方”などという本を買ってきて読んだ。
25歳のときに味の素という会社に入った。この会社はふつうなら私のような者は入れないところだが、たまたま補欠的に中国語要員を取るというので受けた。下宿先の主人が味の素に関係されておられたので後押ししてくれ運よく入れた。
会社に入ってからサラリーマン修行に熱心ではなく、夢中でやったのは組合の読書サークルで、労務勤労課のお墨付きをうけて組合主催の文芸講演会を何度かやり、著名人講師との交渉、セミナーのやり方などを覚えた。
貿易部の時に、マニラや沖縄の駐在をした。そのうちに国内営業部に回され、30代前半は問屋やデパート担当などをやり、羽振りがよかったが、やがて包装だとか資材、調度、物流だとかを担当する課にまわされた。貿易部や営業部時代にこういう分野の人をさんざんこきつかっていたので、自分がこの立場になったとき、いままでの人たちから復讐的ないじめにあって干された。それで仕事はまったく熱があがらなかった。
仕事は残業はせず6時かっきりで帰った。仕事が面白くない分、ストレスがたまって同じような不満組と酒などを飲んでいやしていた。
大宅マスコミ塾第5期生になる
会社から数百メートル離れたビルで「大宅壮一マスコミ塾」というものをやっており、その記事を新聞でみて、ああ、面白そうだな、と思った。6時に会社が終わるから6時半からの授業に十分間に合う。早速応募した。大宅壮一、草柳大蔵両氏の面接をうけた。
合格したので、20名ほどの同級生と一緒に5期生として半年間、週2回通うことになった。
この会はどういう会かというと、物書き、編集者、企業の文化方面担当者などクリエイティブな人材を育てようという会だった。
大宅壮一氏は最愛の一人息子渉氏が自殺したのを悔やんで、同じような年代の若者を物書き、編集者に育て上げようとして開いた塾だった。
塾幹は草柳大蔵氏で、このひとはマスコミ界の寵児、大宅氏の毒舌文をそっくり代筆しているという人だった。講師は大宅壮一の門下生がそれぞれ自分の得意分野と非公開の手の内を語るというもので、物書きあり、新聞記者あり、フリーライターあり、エッセイストあり、編集者あり、カメラマンありで様々だった。
こんな面白い世界があったのかと私は週2回の講義が待ち遠しく、そのたびに眼からうろこが落ちる思いがした。世間常識とはまったく違う感覚で、物事の裏の裏まで教えてくれたからである。
たとえば週刊朝日の編集長である扇谷正造氏は、「文章は短文でいけ」という。「投げた。打った。飛んだ。センターがバック。取った。試合終了・・・」というような感じで要するに週刊朝日の縦1行におさまる長さで書けというのである。こういう書き方は臨場感があり、読者をどんどん引き込んでいくという。
取材の仕方も教えてくれた。たとえば川端康成という作家は男性の編集者にはろくに口もきいてくれないので、連載を取ることは至難だった。毎日のように鎌倉の自宅に通ったが、相手にしてくれなかった。それで一計を案じた。川端の名作「伊豆の踊子」をよんで自分もその通りのコースを歩いてみた。ある場所で小雨が降ってきた。太陽の光をうけてキラキラとあたりの風景が光った。これは小説に表現されている情景とまったく同じだった!。すっかり興奮して「先生、さすがですね、先生の表現通りだったので感動しました!」と話したとき、川端氏の態度ががらりと変わり、寿司食いねえ、ではないが、「君、それで、それで」と次のほめ言葉を促された。扇谷氏はこれで川端氏の原稿をとることができた。
草柳大蔵氏の話。文章は最初の書き出しが大事で、ここで読者にその先を読むか読まないかを決めさせる。それから読者を引き込んでいき、中ほどはだれるからそこで面白い挿話を入れる。最後の一行で「読んでよかった」と思わせる。草柳氏は大宅壮一の代筆者としてまったくコピーのように書いていた人である。
青地晨氏は、大宅流のやり方を解説してくれた。人物評論というのはせいぜい見開き2ページしかくれないが、人物を書くとなると、本当は膨大な文章量が必要だ。しかしそんなことは許されない。それでその人物の特徴をデフォルメして、針小棒大化したり、面白いエピソードを前面に出したりする。NHK会長の馬場真之介は1アナ主義者、奥さんに頭が上がらない恐妻病患者、いきなり家を訪れると、どてらの帯をひきずって出てきた、なんてことを書いて、NHK会長なんてそんな程度よ、という筆の勢いで読者をげらげら笑わせた。
ある著名な人物カメラマンは文芸春秋の4枚ものグラビアを取るのに20日もかける話をした。被写体になる人物(たとえば東芝社長)の著作をくわしく読み、経歴をくわしく調べ、事前に1時間面談してから撮影の準備にはいる。たった4枚のグラビアならバチッととるだけじゃあないかと思ったら大間違い。その人物を最もよく表現できる場所、時間を選ぶ。社長室におさまっている姿、労組との団体交渉の席上、家で夕食にメザシを食べている姿、ワイシャツ姿で日本橋の欄干によりかかっている自然体の姿、など4枚ができあがった。この4枚がなんと百万円もすると聞いてまたびっくりした。
NHKのディレクターの話も聞いた。NHKはどういう意識で番組をつくっているか。一言。エリートが自己規制をきかせて作っている。
まあ、こんな話を毎回聞かされて、私はどんどんこういう世界にのめり込んでゆく自分を感じていた。
大宅文庫の手伝い
そのうちに、熱心な仲間数人と八幡山の大宅氏の本拠で、大宅文庫をつくる資料整理の手伝いをした。このときこの大宅氏の書庫をみてびっくりした。
山ほど古雑誌がつまったダンボールから月刊や週刊の古雑誌を取り出し、それをナンバーごとに揃え、アルミの書棚にならべた。
著名な物書きというのは、古今東西の名著などを原文で読んで通暁している人だと思っていたが、大宅氏の書庫をみるかぎり、原書はもちろん厚ぼったい原理書などは一切ない。あるのは、ゾッキ本のような資料ばかりである。
大宅氏は全国を講演してまわり、焼けていない地方の本屋の棚に売れ残った古雑誌があったらそれ全部買うといって送らせた。どうしてそんなことをするのかというと、世間の人は面白い記事や裏話、珍しい話を好んで読む傾向があり、それがいちばん売れる。たとえば猟奇的な殺人事件や誘拐事件が起こると、すかさずマスコミ各社から大宅氏にコメントや解説依頼が殺到する。そのとき、大宅氏は、「同じような事件は明治X年、大正X年にも起こってましてな、それはこれこれで・・・・」と流れるように蘊蓄を解説する。「ハハーン、昔もそんなことがあったんですね。と記者はよろこんで大宅談として記事にする。世間の人は遠い過去に起こったことは知らないか、忘れているから驚いて好奇心を燃やすのである。大宅氏は軽評論家といわれ、大宅氏の売り込みはそこにあった。
したがって大宅氏の資料の分類の仕方は普通の図書分類とは全く違っている。キーワードは、人物、社会、政治、経済、戦争、外国、スポーツ、犯罪、男女、社会、災害、政治、やくざ、動物、などなどであるからそれらが分類の独特の仕分けになった。
私は、大宅壮一の門下生として、こういう見聞をしたので、小説を書きたいという意欲に変化が生じた。小説という限られた分野でなく、もうすこし広がった学問、情報、表現、伝達ということに関心をもつようになった。
「知的生産の技術」との出会い
私は課内で干されてしまったので、そこの場所で中間管理職になれなくなり、広島支店行きになった。ここで業務用の営業をやることになった。
東京にいた人間が地方支店にいって東京式のやり方でやると些末なことでも反感をかい、同僚部下からも足を引っ張られ、ここでもまったく不快な毎日だった。
こういうときに,本屋で梅棹忠夫の「知的生産の技術」(岩波書店)を見て、すぐ購入した。夢中で読んだ。まさかこの本が私の人生の転回点になるとは思わなかった。
大宅マスコミ塾にいたとき、私は単なる小説家志望から、情報全体に関心がいくようになったことを述べたが、「知的生産の技術」を読んで、ああ、これは論文を書く方法を説いたものだなと思った。すると小説の書き方、論文の書き方をひっくるめると、それは方法論ということになる。
思い切って会社をやめる
日本では、その分野の権威ある先生や専門家が、本を書き、一般の読者はそれをひたすら読んで覚える上から下への一方通行の世界である。一般の読者はいつまでも読者である。文化の生産者ではなく、消費者である。これは面白くないではないかと思った
方法論を教える学校も、文化団体も企業もない。それで私はこの方法論を教える団体をつくって普及活動をすれば、すばらしいことではないか、私自身も価値ある人生がおくれる、今、自分とあまり関係ない商品を売るために四苦八苦しているのはバカバカしいことではないかと思うようになった。
しかし、この野心を実行するには、会社をやめねばならない。
妻と子供2人を抱えて、収入はどうするの? 将来の見込みはあるの?とこんどはいろいろな疑問や迷いが雲のように起こってきた。
毎日毎日、考えに考え、迷いに迷っていた。
考えて、考えて、考えて、もう考えることはやめようと思った。考えることはいいことだとばかりは言えない。考えることをストップすることも重要である。
それで考えないことにした。いつどうやって妻にいうか迷っていた。
しかしとうとう思い切って妻に言った。すると、
妻は「やめたいならやめてもいいよ」と一言でいった。
聡明にして偉大な妻である、と私は彼女に今でも感謝しているのである。(つづく)