知研のはじまり
作家・会長 八木 哲郎
私のたったひとつの長所?
私が子供の時からもっている長所と言うべきか短所というべきか、それは物事をあんまり深く考えずにすぐやってみたくなる性癖である。それで思いつきでやるから失敗も多くなる。
例えば、工事現場みたいなところで鉄パイプの切れ端を拾ったら、これで何かをつくれないかと考え、アッ、そうだ、これをシリンダーにして中を往復するピストンをつくり、ちいさな蒸気機関をつくってみようと思い、10日以上かけて作業したが、結局、うまくできず失敗した。
つまり思いついたことはなんでもすぐ実行しないと気が済まない性格である。
計画性というものはまったくない。
学生時代、おなじ学校警備員のアルバイトをしていた大阪出身の友人は私と対称的な性格だった。彼はなんでもおそろしく用意周到、計画的で、来年、いつどこそこでやるイベントとかコンサートの日付などが発表されると、手帳にびっしり書いておき、場合により予約し、券も買っておく。私はそういうことは来年になってみないとわからないし、そのとき、行く気分になるかどうかもわからないから、予約などすれば余計な制約になると
考える。友人は私のことを気分で動くヴァガポンドだといった。
私は新入社員時代、会社で文化講演会などをもよおす労組活動をした。どんな講師にするかは、人事労務課の課長のOKがないとできない。さんざ審査されたあげく、結局思想性のはっきりしない無難な人しか選べなかった。
たいていの大学には面白い人気教授がいるが、そういう人の話はその大学に入らない限り聞けない。マスコミで人気のある作家や評論家の話は、出版社のもよおす文芸講演会に行かないと聞けない。その当時、異業種交流会などまったくなかったので、それで、こういう人気のある人と直接交渉して、話してもらい、講演料はおおぜいの一般聴衆から集めてとったらいいのではないか、その可能性は大いにあるのではないかと考えた。
こういうことをやりたくなるとぞくぞくしてきた。
そのうちに梅棹忠夫氏の「知的生産の技術」という本に巡り合った。
ひらかなタイプラーターを売り出す
「知的生産の技術」の売れ行きは2万5千程度だろうと梅棹先生周辺はみていたようだが、みるみる売り上げが上昇して、20万部を超え、40万部に達する勢いとなり、全国的なブームを巻き起こした。こんなになるとは梅棹先生も周辺の人もまったく予想外だったようである。
梅棹先生は岩波書店のPR誌の連載に、「この本は単に大量の読者を獲得しただけではなく“社会的変化”を起こした」と書かれた。京大カードを売り出す会社が現れ、私のような人間が東京で「知的生産の技術研究会」を開き、ひらかなタイプライターを売り出したりしたからである。
私は、京大カードよりこの本に紹介されたひらかなタイプライターの方に興味がいった。なぜなら私は文章を書こうとしても、書いたり消したりしてなかなか筆が進まず、もし、ひらかなタイプライターをつかったら、あんがい機械的にうまくいくのではないかという気がしたのだ。
それで京都大学社会文化研究所長である梅棹先生の秘書の藤本ますみさんに手紙を書いて問い合わせると、彼女はさいとうきょうぞう(斎藤強三)という人を紹介してくれた。そこで早速さいとうさんに電話すると、京都までいらっしゃい、1台用意してあげますという返事がきた。さいとうさんはひらかな活字をつくっていた人なので、さっそく京都に行って、活字をひらかなにつけかえた中古タイプラーター1台をゆずってもらった。
この機械で早速文字を打ってみた。出てきた文章をよむと、まるで自分が書いた文章だと思えなかった。第三者が書いた客観的な文章のように感じた。それで気持ちがすべるようになり、文章をより楽に書けるようになった。
私はさいとうきょうぞう氏からひらかな活字を仕入れ、それをつけてくれる職人を紹介してもらった。その職人がドイツ製のタイプライターを輸入してひらかな活字に付け替えたものを私が仕入れる契約を行った。
私は生活費をかせぐために、ひらかなタイプライターの見本をもって、毎日首都圏の大学の研究室を軒並み訪問してあるいた。大学の研究室をまわるのは教務課の許可がなければまわれない規則があるようだったが、私は知らなかったので構わず軒並みノックしてまわった。
大学の助手や准教授はほとんど梅棹先生の本を読んでいたので、ひらかなタイプライターというとすぐ反応した。理科系の助手、准教授の方がよく買ってくれた。作家の小中陽太郎先生は翻訳に使うからと言って買ってくれた。その他、これを使いそうな職業、作詞家、シナリオライター、広告代理店のコピーライター、天理教信者、物書きなどに売り込みに行った。結果は、ここでも知的生産の技術を読んでいる人が多く、ひらかなタイプライターときいて、それ買いたいという人がたくさん現れた。毎日1台か2台売り、1台あたり8000円くらいもうけたから、実入りはかなり良くなった。そのうちに沼津の望月先生という医者から電動式タイプラーターにつけてくれと言われ、その医院に数台売った。
知的生産の技術研究会を立ち上げる
ひらかなタイプライターを売るには、その前段として知的生産の技術セミナーをやり、そこに集まった人たちにひらかなタイプライターを宣伝したら、さらに売れるだろうと考えた。
私は、本来は、方法論を教える事業をやりたいと思っていたから、この方からやるのが筋だったのに本末転倒して目先のひらかなタイプライターの商売に傾いていたことを反省した。
それでは知的生産の技術セミナーの対象は誰か。それは学生である、と考えた。それでセミナーの案内文のちらしをつくって各大学を回り、回覧壁や学生がべたべた貼っているサークルのポスターに並べて貼った。
さらに大宅マスコミ塾の人名簿、私の高校、大学の名簿などを使って何百枚というハガキ案内をつくって郵送した。
当時、朝日も読売も毎日も各新聞には「もよほし案内」という小さな欄があり、朝日の場合は「明日の催し」という欄があった。それで朝日の編集局に行ってたのむと、参加費ひとり1800円は高いから出すのは1回限りだぞと言われた。もっと安くするといいんですかと聞いたら、だいたい500~600円が普通だという。
すべてやることはやったので、かたずをのんで当日をまつことにした。
会場は神楽坂の出版会館だった。
講演題目はさいとうきょうぞう氏の「ひらかなタイプライター」とダイヤモンド編集長岩崎隆治氏のKJ法の解説だった。
いったい何人くるか。ぞくぞくする胸をおさえながらまっていると、受付に長蛇の列ができているではないか。うれしい驚きだった。
あとで数えてみると70名だった。
一人だけ、さいとうきょうぞうの話は面白くないから、途中で退席して金を返せという人が現れた。岩崎隆治の話は面白いからそれを聞いたうえで物をいってくれと反論し、その男はしぶしぶ会場にもどっていった。
講演は皆とてもよく聞いてくれ、質問も活発だった。
さて、終わってから総括したが、ターゲットにした学生はほとんどおらず、私の母校の高校、大学の同窓生はわずか2,3人、大宅マスコミ塾の仲間が7、8名来ただけだった。となると後の50人近くは何を見てきたのか。岩崎隆治はダイヤモンド編集長なのでかれのクチコミもあったかもしれないが、やはり朝日の案内広告の力が大きいと判断した。
しかし、それより大きい驚きは、来た人はみな30代以上、中年に属する人たちだった。
どうしてそうなのか、そのなぞはなかなか解けなかった。
3回目か4回目に当時売れっ子だった多湖輝先生が講演してくれた。
どうして多湖先生のような有名人がOKしてくださったのかは、やはり「知的生産の技術」研究会という名をみて梅棹先生が関係しておられる会なのかと判断されたのだろう。
こういう超有名人が講師にきてくれると会の信用が無条件にあがる。その先生の認知度でさらに吊り上がる。実にありがたい話である。さらに産経新聞が応援してくれ、毎回大きく記事にしてくれた。
この活動を耳にされた梅棹先生が「東京では、知的生産の技術研究会、俗称知研というのだそうだが、それがたくさんの人を集めているらしい」、と岩波のPR誌に連載されたのを読んだ。本の名称を無断借用しているのだから挨拶に行ってこないとまずい、と思い、とるものもとりあえず、藤本秘書に電話してアポを取ってもらった。
梅棹先生の印象
梅棹先生の写真はひたいに前髪の先がかかっていかにもカミソリみたいに切れそうな顔立ちでとても私のような俗な存在は相手にしてくれないだろうという印象が強かったが、岩波のPR 誌の連載ではなんとなく、評価してくれているようなので、書名の無断借用で叱られるおそれはないように思った。
はじめて京都というところに行き、京大人文研のテラスのテーブルでお会いした。先生の印象は、カミソリのようにきれそうなというのとはまったく逆だった。私がこれまであってきたどのような世界の人物ともちがっていた。
秘書の藤本さんが自転車のうしろにどっさり郵便物を積んで現れた。「今日もこれくらい来ました」といって見せたのは「知的生産の技術」を読んだ全国の読者からの手紙やハガキだった。藤本さんは毎日、郵便局の私書箱にとりにいって整理しているのだった。
私が、書名を無断で借用して申し訳ありませんとひたすら謝ると、それは別に商標特許をとったのではないから宜しいという話であった。
それからひらかなタイプライターを売っている話をすると、そんなにはやく始めた君は実行力があると褒めてくれた。それから、知的生産の技術研究会を研究所にしなさいとおっしゃった。先生、会長になってくださいませんかというと、急に黙られた。
黙っている時間がすこしながいので、私は怒らせたのではないかと気になった。後にもこういうことが何度もあったのでわかったが、黙っている時間は先生が頭の中で考えておられる時間なのだった。30秒くらいになると長いと感じるのである。ややあって藤本さんをよび、“顧問”だったら問題ないかと相談された。ご自分は公務員で役職なので一般の団体の長は兼職不可能だが、顧問ならいいということになった。
これは大変なことだった。私のような初対面で、紹介者もおらず、どこのウマのホネかわからない若造をどうして信用されたのだろうか、と不思議に思った。
大教授だから上からの目線で見下ろされて門前払いというところが普通だが、まったくそうではなかった。私は対等に扱われた。
あとで聞いた話だが、東京の大宅壮一氏の奥さんの昌さんに私の事を聞いたらしい。
私は口笛をふくような思いで京都をあとにした。(つづく)