NPO法人知的生産の技術研究会

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知研のはじまり

作家・会長  八木 哲郎

あたりまえになったこと

私の学生時代、サラリーマンになった頃、普通の者は、偉い学者や先人の書いたものをよく読んでそれを覚え、その通りに従い、生きればよい、というのが教えであった。それで普通の人は電車の中で時を惜しんで本をよく読んた。
梅棹先生は、普通の人でも研究者になれるから、そのための知的生産の技術を覚えなさいと言われた。先生が推奨したのは、カードの作り方とかノートの使い方とか本の読み方、情報を組み合わせて新しい発想をする方法などであった。
先生の影響で京大カードが売り出され、どれだけたくさんカードをつくったかが自慢の種になったが、1000枚も作った人はまあいないのではないか。
今、私はずっとあとで何百枚かカードをつくったが、なるほど先生の言ったとおりカードづくりはごく基本的で役に立つ技術であることが分かった。そのかわり相当な勉強量がいるということを知った。

梅棹先生は技術を覚えて研究者になりなさいと教えてくださった

既存の先人の書いたものはもちろん学ぶべきだが、自分で築き上げるということを先生は重視した。
これから人生百年時代になると現役を離れてから40年も「老後」がある。人生50年、60年時代の人はだいたい年金を10年もらってこの世からおさらばしたわけであるが、老後40年もあると、研究でもかなりまとまったものができる時間がある。
現役を退いてから研究をはじめても十分できることになる。皆さん、どうしますか?

全国に「勉強会」を流行らせた

知研で誇れることといえば、異業種交流会を全国に流行らせたことである。
それまで講演会といえば、出版社が文芸講演会という形で著名作家などの講演会をするとか、あるいは証券とか株の会社が投資の話などで講演会などをする程度であった。あるいは団体や企業が会員や従業員教育の為にやる場合もあった。
だが、知研のような零細な会が、集まった人たちからコーヒー代程度のお金をとって、有名人や時の人の講演を一般の人に聞かせるということは絶対にありえなかった。
とてもいいことなのに役所も企業も図書館もどこもやらなかった。
資本主義の社会では何事も利益で動き、大衆の為にもうけにならないサービスをするなんていう発想はこれっぽっちもないわけである。
知研がやりだしてから、珍しいので、マスコミが盛んに取材にきた。どこの新聞も「勉強会」と名付けて報道した。私は知的生産の技術の普及活動をしているので勉強会といういい方はやめてくれといっても、マスコミの人はわからなかった。
私の談話と写真が載ったサンケイか日経の記事をみた札幌にいた久恒さんから手紙が来て、以来今日までつながりができた。
知研の講演会はどんどん人数が増えて、200人以上に達し、IBMのマネージャーの方(この方の名前失念)の「ライフワーク論」のときは2百数十人に達し、ついに立ち席がたくさん出た。
知研の講演会が当たったので、まねる団体があちこちにでき、あっという間に全国に蔓延した。
こういう現象は今では当たり前だが、知研がつくりだしたことを誇りにしている。またプレゼンテーションとか感性とかいう言葉も流行らせた。

知研は講演会だけでなく、河口湖周辺の農家の大広間を借りてKJ法とかNM法の合宿を何回もした。毎回4、50名の人が参加し、1泊2日のスケジュールでやったが、参加した人たちは、研修の効果もさることながら、異業種の人たちと夜明けまで飲み明かしながら話し合ったことが一番有益だったというのが印象的だった。
私は地方経営者団体の青年部会を竹下首相の弟さんが島根でやっていてそこからよばれて数日間滞在して講演会のやり方を教えた。
また西武百貨店のベテランといわれている社員の意識をかえるために美術の話や歴史、教養、学問の話などを聞かせる知研の会に社員を参加させるなどの話が来た。

朝日カルチャーセンター

ある日、朝日新聞社から電話が来て、講演会のやりかたを教えてほしいから伺いたいと言ってきた。朝日の記者がこんなことを聞きに来るなんておかしいなと思っていた。
来たのは3、4人の記者ではない人たちだった。ごつごつした体つきからすぐわかった。説明によると、その人たちは植字工で、鉛の活字を文章に組み合わせて活版をつくり印刷する作業をしていた人たちで、今後はコンピュータで全部文章を打ち込んで型版をつくる方式に変わり、植字工はいらなくなったので、自分たちはお払い箱になり、困ってしまうので講演会を事業としてやりたいというのであった。
私は、講師の選び方や交渉の仕方などを説明してあげた。
それから1か月ほどしたある朝、朝日の朝刊を広げてびっくりしてしまった。何と見開き一杯に「朝日カルチャーセンター」の案内広告がでかでかと出ていたのである、むずかしい講座もあるが、おもに主婦向けの教養講座、文芸講座、趣味娯楽などで、様々の分野から若手の講師を集めて組んであった。これにはしてやられた感じがした。

路線をきちんと守ることの大切

知研の講演会がうまくつづいたのは、何と言っても知的生産の技術の読者が基層に居たからである。
知研は知的生産の技術の普及を使命としたが、毎月1回開かねばならないので、講師の選択に困ることがあり、要するに知的な刺激のシャワーを浴びせ続けることだと心得た。
それでどんな講師を呼ぶかについてずいぶん大きくぶち上げた。
曰く、当代一流の業績を上げた知的生産者、すばらしい発明発見をした技術者、前人未到の分野に挑戦して成功した人物、などなど。すると、新幹線の発明者である島秀雄さんをよんでくれという要求がきた。
どんな講師を呼ぶかについては、要するに自分が話を聞きたい人物は他人も同じだろうと推定して、で面白い人物、小室直樹、山本七平、今井正などの映画監督、変わり種では吉展ちゃん誘拐事件のベテラン刑事平塚八兵衛、禅僧の弟子丸泰仙、太平洋ヨット横断の堀江謙一、海軍の黛治夫艦長などをよんだ。自分が聞きたい人物はお客さんも聞きたいというのは真理だった。
こういうのは常に知的生産の技術の拡大版にはいるものと考えた。

勉強会というのはあちこちにたくさんできたが、3年たらずで消えてしまうのがほとんどである。なぜそうなるかというと方針とか基準がないからである。
数人の仲間があの講師をよびたい、あの講師なら連れてこられる、などと言って便宜的に決めると、いったいあの会の路線はなになのかと疑われて参加者は離れていく。奇妙奇天烈な人物をよぶなどは信用を失う。参加者がすくないとたちまち赤字になってつづかなくなり消滅する。
知研が50年近く続いているのは、梅棹先生の後光と知的生産の技術という基本線を守ってきたからである。イデオロギストと宗教者、政治家はタブーで、リベラルな人はほとんど総なめにした。
しかし危機があった。
熱心な会員はスタッフになりたがり、募集するとわっとあつまってくる。スタッフになると好みの講師を呼ぶ権利を獲得するから微妙に路線がみだれることになる。知研の個性が変調し、参加者が敏感に感じ取り、赤字になる。スタッフは責任を感じたためかすぐやめてしまう。
私はこれにこりて同じ地域でスタッフを求めないことにした。スタッフは地域の支部長だけにした。支部長はその地域で独自にやればよいとした。
(つづく)